エジプトに根づく「小さな社会」の練習場 ~Tokkatsuが紡ぐ、未来への「共育」~(国際協力機構(JICA)専門家 中島 基恵氏)

カイロ郊外の「エジプト日本学校」。掃除が終わった教室で、日直の児童が前に立ち、少し緊張した面持ちで言う。「今日はみんなでよく頑張りました。特に机を拭いたグループが、とても丁寧でした」。拍手する子どもたちを見守る教師の目は優しい。ここでは、日本の「特別活動」が「トッカツ(Tokkatsu)」と呼ばれ、教室を「小さな社会」に変えている。なぜエジプトで、日本の学級活動が導入されているのか? その背景には、一国のリーダーが日本で抱いた感慨と、遠く離れた国への並々ならぬ信頼があった。

ナイルに渡った「歩くコーラン」の精神

現在、国際協力機構(JICA)がエジプトで実施する「特別活動を中心とした日本式教育モデル発展・普及プロジェクト」、この取組の起源は、エジプト大統領の訪日時の一つの光景にさかのぼる。大統領が自らの希望で視察した東京の小学校で、教師の指示を待たず、互いに声を掛け合いながら給食の配膳を整然と行う子どもたちの姿があった。「なぜ子どもたちだけで、こんなことができるのか」。その自律と協働の光景に深い感銘を受けた大統領は、日本の秩序と調和を重んじる社会を賞賛し、日本人を「歩くコーラン」と称した。その意味は、「コーランの崇高な理念を、日常生活で実践している人々」というものだった。自国でも理念と実践の架け橋となる教育を、との思いが、日本への協力要請へとつながった。

2015年より、パイロット校2校で始まった日本式教育の導入は、その後目覚ましい広がりを見せる。現在では「エジプト日本学校」(Egyptian-Japanese School:EJS)として全国に69校のモデル校が設立され、さらに画期的なことに、エジプトの初等教育国定カリキュラム全体に「Tokkatsu」が正式に組み込まれた。すべての公立学校で週40分のTokkatsu実践が義務付けられているのである。これは単なる「日本式」の導入ではなく、エジプト国家自身がその教育システムの中心に、日本の教育哲学を取り込んだことを意味する。

  • EJS全景。日本の規格にほぼ準拠して建設
  • 併設する幼稚園では「遊びを通じた学び」を導入した知育を行う

Tokkatsuが目指すもの──良き市民への予行演習

では、エジプトが求めた「Tokkatsu」の本質とは何か。それは、読み書き計算を超えた、「生きる力」の育成である。学校を「小さな社会」と見なし、社会に出る前の「良き市民としての練習の場」とすること。その要諦は主に三つの実践に集約される。

まず「日直」である。リーダーは特権ではなく責任であること、優れた組織には良きリーダーと良きフォロワーの双方が必要であることを、全員が交替で体験的に学ぶ。平等な機会が、相互理解の土台を作る。

次に 「学級会」 だ。「休み時間の校庭の使い方でけんかが起きないようにするには?」といった身近な課題に対し、教師に頼らず、自分たちの学校生活を自分たちでより良くするために話し合う。自分の意見を主張し、異なる意見に耳を傾け、数の力ではなく対話と創造によって「納得解」を導く。この経験が、将来、社会を主体的に形作る市民の原動力となる。

そして「清掃活動」 である。これは単なる美化活動ではない。自分が恩恵を受けている共同体(教室)に対して、一員として当然果たすべき責任を具体的行為で示す「帰属と貢献」の実践である。これを通じて、公共心と当事者意識が育まれる。

  • 意見箱から議題を運ぶ日直の様子。TokkatsuはEJS以外の全国の公立校でも導入
  • 学級会。この日のテーマは「みんなで季節の変わり目を祝う」
  • EJSの清掃活動。教師と児童が一緒に参加するのが特徴

「技術支援」を超えて──日本が担う意味と責任

このプロジェクトは、しかし、単なる「優れた教育手法の輸出」という枠組みには収まらない。そこには、現代の日本と世界が直面する課題を考える上で、深い示唆がある。

第一にこれは、「日本の社会モデルそのものに対する信頼の表明」である。文化も言語も異なるエジプトが、日本の教育の向こうに「未来の自国の社会の姿」を見出している。日本国内で多様性への対応が問われる今、日本の在り方が他国の規範となり得るという事実は、私たち日本人に自らの社会の価値を改めて問い直す機会を与えてくれる。そして私たちは、彼らの信頼に足る社会を維持する「責任」を負っている。

第二にこれは、「中東という地政学的に重要な地域における、平和の基盤づくり」という戦略的意義を持つ。エジプトの隣国では、価値観の相克が悲劇的な紛争を生んでいる。日本が直接の政治的解決に乗り出せるわけではない。しかし、エジプトという中東の大国で、多様性を認め合い、対話で折り合いをつける方法を学ぶ子どもたちが育つこと──その積み重ねは、遠い将来の地域の安定に確実に寄与する。日本の協力の一環として、将来の紛争を予防する最も根源的な取組が、ここ中東の教育現場で既に始まっているのである。

  • 日本の「文化の日」に合わせておにぎり作成を体験する児童
  • 音楽教育では、日本の民間企業も協力してカリキュラムを作成

海外展開のヒント──共に未来を育む「共育」のために

最後に、日本の教育が海外展開する上での示唆を、エジプトのTokkatsuプロジェクトから考えてみる。ヒントとして、次の三点が挙げられよう。

第一のヒントは、「手法」ではなく「哲学」を共有することである。成功の鍵は、清掃や日直といった「活動」そのものよりも、その背景にある「公共性」「自律性」「合意形成」といった社会的価値観を共有し、相手国の文脈で再定義する対話にある。

第二のヒントは、「短期的成果」より「長期的投資」を見据えることである。教育を通じた社会変容は時間がかかる。エジプトのように、カリキュラムに組み込むなど、制度自体に働きかける覚悟と、将来の平和と安定という大きな果実を見据えた持続的な関与が不可欠だ。

そして第三のヒントは、「なぜやるのか」を、支援者である私達自身が問い続けることである。相手国のニーズに応えることは大前提だが、それと同時に、日本側の関係者一人ひとりが「この協力に、日本人の私たちはどういう意味と責任を見いだせるか?」と自問し続けなければならない。これが、短期的な社会の変化にも左右されない、情熱と持続性の源泉となる。

エジプトの教室で、「小さな社会」の練習に励む子どもたち。彼らが学んでいるのは、日本の「型」だけではない。異なる文化をつなぎ、共により良い未来を築こうとする、人間の普遍的な可能性そのものである。「教育協力」の本質は、単なる技術の支援を超え、共に未来を育む「共育」の中にこそ存在する。Tokkatsuを実践するエジプトの人々が、いま私達の目の前で、この核心的な事実を鮮やかに体現している。

■筆者プロフィール

中島 基恵(なかじま・もとえ)
国際協力機構(JICA)専門家
経歴:
大学卒業後、1995年に青年海外協力隊(理数科教師)としてザンビア共和国に派遣。帰国後、JICA企画・評価部ジュニア専門員として教育案件の評価業務に従事した後、ホンジュラス、モザンビーク、ウガンダ、ケニアなど、アフリカを中心とした各国で、初等・中等理数科教育の現職教員研修、教科書開発、プロジェクト運営等に携わる。2019年5月よりエジプト国「特別活動を中心とした日本式教育モデル発展・普及プロジェクト」の専門家として、エジプト教育省との協力体制を統括し、現地への日本式教育導入を支援、現在に至る。

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